平成30年10月度の二木会を次の通り開催致しました。
1.日時 平成30年10月11日(木) 18時30分~20時40分
2.テーマ 「旧制高校とパブリックスクール」
3.講師 安西敏三氏(昭和47年大法政卒)
慶應義塾大学大学院法学研究科にて法学博士号を取得。
甲南大学教授(専門は日本政治思想史)
昨年春より甲南大学名誉教授
4.出席者 25名
(講演の要旨)
旧制高等学校とは、帝国大学に入るためのエリート養成学校であった。第一(東京)から第八(名古屋)までの所謂ナンバースクールと呼ばれた3年制の高校に加えて大正7年の改正高等学校令で公私立も設立可能な7年制高等学校が創立され、官立の東京や公立の浪速、富山、府立に加えて私立の甲南、武蔵、成蹊、成城が設立され、大阪や姫路などの官立の3年制も各地に設けられ、所謂ネームスクールと呼ばれた。学習院も、宮内省所管ながらこの時に他の高等学校と同様となり、8年制ながら7年制を本体とする官立の高等学校の一つと扱われた。旧制高校生は、当時、同年代男子の0.54%、多い年でも0.97%にしか過ぎなかった。
旧制高校はイギリスのパブリックスクールに準えられ、高校によってはそれに範を求めた。その教育は、ウィンストン・チャーチル2世によれば「これ以上の辛苦・屈辱・恐怖はないと確信させて人生に備えさせる学校」として位置づけられていた。寄宿制、下級生への監督制、古典語(ギリシア・ローマの文学、哲学、歴史)修得、宗教学、集団スポーツの奨励などに徹していた。
学習院でも西洋古典や教養が重視されたかもしれないが、履修科目としては他の高校と同様、英・独・仏の語学がギリシャ・ラテン語に代わるものであった。政治・軍への関心は乃木希典の教育に代表されるように、明治期の高校に顕著にみられたが、大正期にはむしろ白樺派に見られるような個性を重んじる教養主義に移行し、安部能成の説く人格主義が広く行きわたることになる。
パブリックスクールが重視した団体スポーツは人格形成のための徳育として旧制高校でも生かされた。旧制高等学校の生活は、東洋豪傑風文化から西洋風文化に変遷していった。西洋流の知識・教養・人格主義が儒学の説く道徳的修養に入れ替わったのである。旧制高等学校で学ぶ知的教養教育は、帝国大学での実学主義教育を経て、社会に出ると卒業現象を見るに至り、教養は単なるアクセサリー化し、時代や社会に対する警鐘の糧に成り得たかは疑問である。教養主義的人格の維持は社会では持続しなかったのが一般的であったのである。
福沢諭吉の手になるものかは明らかではないが、英国のパブリックスクールを経てオックスフォードやケンブリッジの学寮での会食や個人指導を伴う紳士養成教育システムは、確かに高等教育卒業時における学力において米独仏、あるいは日本に比して劣るといえども、卒業後も高尚な気風(ノーブルフィーリング)を培うべく生涯に亘って学び続ける素地を提供しているとのことである。「人と交わるのはこのフィーリングを養成するにあり」が福沢の考えである。中でも学生との会食が持つ徳育を含む教育的効果は旧制の甲南や成蹊に見られ、甲南や一高の校長、さらには学習院の旧制時教授経験を持ち新制時には顧問ともなった天野貞祐が着眼することになり、天野が第3次吉田茂内閣の文部大臣の時に決まった日本の教育における小中学校の給食制度を設ける契機ともなった。
(文 新道正雄 講師加筆)
講演開始前の会話の中で、安西講師から学生時代の所属ゼミについて質問を受け、川北洋太郎先生の憲法ゼミと返答したところ、安西講師は、川北先生の外書購読を受けられたとのことであった。「カール・シュミット(ドイツの法学者で、川北先生が講義の中でよく引用されていた)ですか?」とお聞きしたところ、ドイツ語で原書を読まれたとのこと。安西講師は昭和47年3月卒業、私は同年4月入学で在学期間に重複はないが、同じ恩師に学んだという共通点があることで急に親近感が増し、恩師が引き合わせてくれたご縁のようなものを感じた。
(文 木口久喜)
ご講演中の安西敏三氏
本年5月度の講師・吉村典久氏(大阪市立大学大学院教授・経営学博士 右から2人目)から安西敏三氏へ記念品の贈呈。
本年7月度の講師・河村敏介氏(元住友重機械工業・専務執行役員・法学博士 右)も加わり博士3人が揃った。