平成30年9月度の二木会を次の通り開催致しました。
1.日時 平成30年9月13日(木) 18時30分~20時40分
2.テーマ 「乃木希典・静子の語られ方―『軍神夫妻』の神格化と『忘却』―」
3.講師 片山慶隆氏(平成11年大文史卒)
一橋大学大学院法学研究科博士課程に進学。法学博士。
修了後は、早稲田大学政治経済学術院助教などを経て、現在は関西外国語大学・英語国際学部准教授。
専門は日本近代史(特にメディア史)。
4.出席者 27名
(講演の要旨)
日露戦争の旅順攻略戦を指揮したことで有名な陸軍大将の乃木希典(1849-1912)は、明治時代から現在までさまざまなメディアで取り上げられ、著名な歴史上の人物である。一方、希典の妻で、ともに明治天皇大葬の日に殉死した乃木静子(1859-1912)は、一般的に名前が知られているとは言い難い。だが、戦前期の静子は、「軍神の妻」として神格化され、彼女に関する書籍が少なからず出版される有名人だった。
静子を顕彰する書籍は、彼女の没後に登場した。静子は、武士の妻として恥ずかしくない最期を遂げた「烈婦」として注目された。彼女は、大将夫人とは思えないほど質素で謙虚であり、誰に対しても優しく、それでいて勝典・保典の二子が日露戦争で戦死した折にも涙をほとんど流さず、毅然としていた「純日本的古武士の妻」と絶賛された。没後1ヵ月にして、非の打ちどころのない神格化された存在となり、日本女性の模範としての静子像が形成された。当時は良妻賢母主義への批判や疑問の声も上がっていたが、彼女を模範として人々の中には、そのような社会風潮を批判し、乱れた社会を改める良い機会として静子の殉死を捉えている者もいた。
1913年以降は、模範的母・妻としての静子像が定着し、神格化が進んだ。この時期も、婦人参政権獲得運動を批判し、女性はあくまで家庭で役割を果たすことを説く保守的な女性観を持つ人々によって、静子は祀り上げられている面があった。ただ、1909年に静子が満洲を訪れた際、墓碑に息子たちの名前を見つけて号泣したエピソードが紹介され、情にもろい母としての一面があったことが明らかにされた。そして、1929年以降は、乃木夫妻をよく知る人々によって人間味のある「等身大」の姿が語られるようになり、静子像は大きく変化する。彼女は、子どもの教育を心配し、息子が戦死した際には取り乱して、しばらく外出できないほど打ちひしがれた普通の母親だったことがわかったのである。さらに、日中戦争の進展に伴い、母性が強調され、息子思いの母として静子は語られるようになっていく。
だが、アジア・太平洋戦争後になると、静子を扱った書籍はほとんど出版されなくなる。彼女の生き方は戦後の価値観や時代状況とは合わなかったため、次第に忘れられていったのである。
(文 講師)
ー 乃木希典と学習院について ー
明治41(1908)年に学習院の目白移転を機に、6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木希典院長は総寮部内の一室に起臥し、学生と寝食を共にしてその薫陶にあたったと伝えられている。
昭和47年昭和寮入寮当初、歌の訓練で覚えた5曲の内、学習院寮歌「大瀛の水」の3番目に当時の寮生活の様子がうかがわれる。
皇城の北目白台 芙蓉八朶(はちだ)の秀麗を 窓に含める六寮(りくりょう)の
健児三百雄々しくも 朝な夕なに競ひつつ 高き理想をたどるなり
(文 木口久喜)
会場の様子
講演中の片山慶隆氏
本年7月度の講師・河村敏介氏から片山慶隆氏(写真右)に記念品の贈呈