高島肇久氏

高島肇久氏

高島肇久氏(昭38政) 学習院大学法学部特別客員教授

 今日は7月7日、来年の7月7日は北海道洞爺湖サミットの開会日です。サミットまであと1年。日本では5回目の開催になります。当初、外務省は京都迎賓館を使って開催したかったようですが、安倍総理の決断で洞爺湖になりました。そのかわり京都では外相会合が開かれます。
 首脳会議は、7月7日から3日間行われます。でも、サミットはそれだけではありません。来年は次々に関連会議が入り、洞爺湖の首脳会議で締めくくりとなるのです。テーマは環境問題と開発問題。旱魃、豪雨、洪水といった異常気象、それに伴う食糧難と貧困。環境メカニズムが崩れ、貧しい人たちがとくにひどい目にあっています。これは地球の安全保障に関わる問題です。温暖化防止と開発途上国の貧困対策を急がねばなりません。
 これらの問題を日本がどう取り上げていくか。日本のODA(政府開発援助)は減り続けています。世界から見れば、日本の熱意が問われるわけで、外務省はなんとか歯止めをかけたいと知恵を絞っています。 その先頭に立っているのが麻生外相です。日本のブランド・イメージを高めようとしています。ブランド・イメージとはソフト・パワーがどのくらいあるか、つまりその国がどのくらい魅力があり、他の国の人から尊敬を集める力があるかということです。軍事力や経済力といったハード・パワーの対極にある概念です。
 麻生外相はマンガに着目しました。日本にはマンガという素晴らしいソフト・パワーがあると麻生氏は言います。ワシントン郊外のショッピングセンターに日本のマンガが並び、フランス語に翻訳された日本のマンガが出版されているように、日本のコミック、アニメ、ゲームは世界に浸透しつつある。日本のイメージを高めていくためにマンガを使うべきだ。当初は外務省の官僚たちも半信半疑でしたが、国際漫画賞の創設として実を結び、日本の文化外交に新しい風を吹き込むことになりました。
 世界ではネイション・ブランドが問われるようになりました。それぞれの国のブランド・イメージです。そこに行って住んでみたい、働いてみたい国はどこか、といえば分かりやすいでしょうか。イラク戦争以来アメリカのイメージは著しく低下しています。日本のイメージは中国や韓国では低いのですが、欧米ではかなり高く、日本は信頼できる国かという問いに有識者の8割から9割が、信頼できる、どちらかというと信頼できると答えています。
 問題はどうやってブランド・イメージを外交に役立てていくかです。皆さんの記憶にも新しい、国連の安全保障理事会の常任理事国入り、日本はさまざまな外交努力をしました。でも、うまくいかなかった。日本が常任理事国入りを言い出せば支援すると言っていた国が、現実にこの話しがテーブルに乗ると態度があやしくなってくる。日本に対する信頼はとても高いけれど、それが日本外交や国際的な地位の向上にはつながらないのです。
 外交力はODAを倍に増やしてもダメです。問われるのは日本の発信力です。東京にいる外国のプレスが減って北京が増えている。北京のほうがニュースがある、魅力的だというわけです。中国に関する記事が増えれば、ますますメディアの関心が向いていく。大きな流れができつつあります。
 日本の等身大の姿をどう伝えるか。論を立てて、英語で発信していく論者があまりにも少ない。北朝鮮の核実験やミサイルの連続発射があっても、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙のオピニオン欄に、日本人の書いた記事が出たことがありません。学者にしても論文のほとんどは日本語の印刷物として出されます。英語でインターネットに載せるということが極めて少ない。その結果、世界の有識者の目に触れる頃には時機を失したものになっています。
 アメリカでは、政府が新しい方針や政策を出すとき、ファクト・シートという補足資料を豊富に出します。記者発表の後、間髪いれずに出てきます。背景説明があり、基礎的な数値が資料として示されますから、記者は深みのある記事が書けます。日本では記者が自分で調べなければなりません。締切に追われる記者にとっては無理な話です。日本の主張を世界にもっともっと伝えないと、国際社会の中で日本は存在感を失います。そのためには工夫が必要です。
 英語によるテレビの国際放送をはじめたいと考えています。BBCやCNNは世界中で見られますが、これだけでいいのか。他の国は自分たちの考え方、ものの見方をテレビで伝えようとし始めています。日本でも放送法の改正が成立すれば、まもなく実現するでしょう。ただ、お客さんがつくかつかないかは、ひとえに内容にかかっています。日本人による日本風の放送ではお客さんはつきません。カタールのアルジャジーラは、アラブ系のメディアですが、英語放送にはユダヤ系のレポーターを採用し、他にもヘッド・ハンティングして優秀な人材を集めています。
 今まで述べてきたような事柄を積み重ねることで、その国の存在感が高まっていくのです。いま、国際政治の中に真空状態ができてしまっています。そこにつけ入ろうとしている国がいます。自由、民主主義、人権、法の支配、市場経済という共通の価値観を持つ国が手を握り、提携していかなければなりません。
 日本は世界での信頼感を高めると同時に自分たちの考え方やものの見方を発信する努力が必要です。洞爺湖には世界のプレスがやってきます。今日からまる1年、綿密な作戦を立て、日本の国際的な地位を確固たるものしていく努力が求められています。

 

戸松秀典氏

戸松秀典氏


戸松秀典氏 学習院大学専門職大学院 法務研究科長

平成18年9月21日に、新司法試験合格者の発表がありました。マスコミも大きく報道しましたが、学習院大学は15名の合格者を出し順位は19位でした。朝日新聞は旧司法試験は25位であったとのカツコ書きを付けていました。
 これを見た方々、特に学外からは、「学習院は頑張っている」と言われました。従来の試験では、わずかしか合格していませんでしたから、画期的なことだとの評価を得ました。
 しかし、私は、法務研究科長として、3月に50名の修了者を出し、全員合格との信念で修了させましたので、不本意な結果ではあります。
 我々法科大学院スタッフ全員、真剣にいろいろ分析して、今後の対応等を考えていますのでその結果を踏まえて法科大学院の現状と今後についてお話しいたします。
 法科大学院の使命は、わが国は西欧と比べて法曹人口が少ないのでそれを増加させるとともに、戦後行って来た司法試験を通しての法曹育成過程にいろいろな病理現象が生じ、制度疲労まで起こしているのでそれを改革するということです。
 司法試験予備校で学んで試験に合格した人が、2年間の司法研修所の修習を経て法曹になるのですが、十分な資質をもっているかどうかが疑われることが多くなってきました。
 一回限りの試験による選抜ではなく、きちんとした教育をする法曹育成が法科大学院で、専門職大学院という位置づけです。
 学習院大学は小規模で、財政能力上からも大きな大学院を作る訳にはいかず、いろいろ検討した結果、法学既習者50名の2年コースと、未修者15名の3年コースとに分けました。3年コースは、多様な資質を持つ優れた法曹養成が制度の趣旨のひとつですから、医師、歯科医師等の理科系の人にも法曹になってもらいたい、ということです。
 入学生達は、朝から晩まで目の色を変えて勉強しており、学部の学生に良い影響を与えています。文科省の視察での学生への聞き取り調査で、「これほど教師に対する信頼感があり、大学への愛着感を持つ法科大学院はない」との評価もいただきました。
 来年度からは、法科大学院の中に法務研究所を設け、いろいろな問題の受託研究を引き受け、その研究過程での成果を学生に還元することや、学習院に法律事務所を作ってそこで学生の実務教育をしたり関係者からの相談にも応ずるという様なことを考えています。
 また、すでに法曹資格を得て活躍している人が、法科大学院に戻ってもういちど腕を磨き直すリカレントスクールも成り立つのではないでしょうか。それらによって、法科大学院は、必要不可欠、磐石なものになると考えています。

(戸松教授講演録より抜粋・要約 文責・前田兼利法学部同窓会長)

 

こいけひでお/昭和60年学習院大学経済学部経営学科卒業後NHKに入局。鳥取での5年の記者生活などを経て、政治部の首相官邸担当となる。マスコミ志望は名刺1枚でだれにでも会えるから。弁論部出身。この講演後、小泉内閣は解散。9月11日の総選挙の勝利で新たに小泉内閣が誕生。

 

小池英夫氏(昭60営)

小池英夫氏(昭60営)


小池 英夫氏(昭60営) NHK政治部記者
 郵政民営化を改革の本丸と位置づけ、小泉内閣最大の課題として取り組んでいるが、国民に、今一番取り組んでもらいたい政策を問うと、郵政民営化は10位前後で、1位には福祉・景気・年金をあげている。小泉さんと国民の問に意識のギャップがある。
 この内閣は小泉首相個人の人気によって支えられている。小泉さんと国民との関係は、若貴ブームと大相撲に少し似ている。90年代に毎日満員御礼が続くという空前の大相撲ブームがあったが、これは89年11月場所に貴花田が新十両になり、貴の花にしこ名を変えて、全盛期を歩み、97年5月に引退するまでの7年半のことだった。若貴ブームが去って、人気が下がると、両国の国技館だけでなく、地方に行っても、観客が半分位で、閑古鳥が鳴いている日もあった。あの空前の大相撲人気は若貴人気に支えられていた。
 小泉首相は政治家の世界では変わり者で通っている。夜も寝るのが遅いようだが、朝が本当に弱い。火曜と金曜は閣議があり、国会開会中は午前8時から、閉会中は午前10時からだが、それ以外は11時以降に公邸を出ている。歴代の首相の中でも朝のスタートが遅い。
 また、非常に多趣味である。歌舞伎、映画、オペラ、ミュージカル。今日から3連休だが、他の総理大臣だと3日のうち1、2日は政治家と会って、情報を仕入れたり、政策課題について議論したりする。小泉首相は自分の趣味に休日全部をあてている。
 首相の1日の中で一番輝く時間がある。1日2回の記者団の質問に答える時間、午前11時半から12時と夕方6時から7時位の間で、特に後者はテレビが入るので目を輝かせ、ワンフレーズを話し、表情も豊かで、生き生きとしている。
 「構造改革なくして景気回復なし」等のワンフレーズで、国民に分かりやすく、訴える。自分の言葉で言えるというのは小泉さんの力量・才能で、これまでの首相にはなかったことだ。
 さらに、サプライズがある。国民をあっと驚かせて、支持率を上げる。ハンセン病の判決に関して、国は上訴するという見解が多かったが、夕方、官邸での会議後、記者団の前に現れた首相は、一言「告訴はしません。後は、担当大臣に開いてください」。普通第一報は担当閣僚、官房長官が言うのだが、首相の決断であるという印象を与える。
 人事では、安倍幹事長や武部幹事長をもってきたり、衆議院の郵政民営化特別委員会の筆頭理事には自民党の副総裁を経験した、盟友の山崎さんをもってきた。野党との折衝で汗をかく仕事で、普通中堅以下の人をもってくるがサプライズの演出がうまい。
 官邸サイドでサプライズを演出するということは、情報がどこかで漏れるとサプライズにならないということ。内閣の中で情報を知る人を少なくして、情報漏れを防ぐということで、ガードの堅い内閣だといえる。また、新しい総理大臣官邸ができたこともある。前の官邸はオープンで、記者は自由に行き来ができ、総理執務室の近くや官房長官の秘書官室まで行くことができた。今は1階に記者クラブがあり、3階に正面玄関があり、5階に総理と官房長官の部屋があり、常にアポイントをとらないと入ることができないので取材がしにくくなっている。
 また、特徴的なのは変化を印象づけること。例えばクールビズを率先して行う。通信販売で買ったということですが、初日に沖縄の服を着て登場して、「これはいいだろう」と自分から投げかけ、変化を印象づける。国民は、変化に弱い。場面が変わると、興味をもつ。
 もう一つの小泉政治の特徴は劇場型政治だと言える。強固な意思をもって政治を進めているというわけではない。反対派の納得を得られるよう郵政民営化法案の修正を行うのであるが、7月4日の国会答弁の中で野党の追及で修正しても法案は全く変わっていないと言い張り、強弁した。自民党内では評判が悪く、反対が増えた一つの要因になったが、自分の思いを劇場型で言い切ってしまう。
 郵政民営化法案で衆議院で51人の造反が出た。参議院はギリギリで可決されるのではないか。参議院で否決されると、解散に打って出るだろう。
 外交は、中国、北朝鮮、ロシアの北方領土、国連の安保理問題等八方ふさがりではないかと首相に質問したこともあった。3月までは予算で、4月から3カ月間郵政問題一本にしぼられていて、他の政策課題がストップしており、国益を損ねているという指摘もある。
 小選挙区制は、党主の顔によって政権が選ばれていく、ある意味でリーダーシップを強くもった人の方が選挙に勝つ。小選挙区制度によって、政治の本質が変わってきていると言える。(講演要旨)   構成/田中進(昭48法)

こいけひでお/昭和60年学習院大学経済学部経営学科卒業後NHKに入局。鳥取での5年の記者生活などを経て、政治部の首相官邸担当となる。マスコミ志望は名刺1枚でだれにでも会えるから。弁論部出身。この講演後、小泉内閣は解散。9月11日の総選挙の勝利で新たに小泉内閣が誕生。

 

平野 次郎氏

平野 次郎氏


平野 次郎氏 NHK解説委員、学習院女子大学特別専任教授
 アメリカの社会学者デイビッド・リースマンは、学者と知識人との違いを「学者というのは観念の中に生きる人間であり、知識人は観念を求めて生きる人間である」と言っています。
 ジャーナリストというのは、自分の感情や嗜好に関わらず、事実を事実として受け止めるものです。対して学者というのは、事実の中から論理をつくりだします。そこに違いがあります。
 コンバージアンスの原則というものがありますが、コンバージアンス(収斂)の原則とは、格差が存在する経済圏同士が、経済を交流させると、結果として格差が是正され、両方の経済圏にとってハッピーな結果がもたらされるという近代経済学の理論です。しかし、経済学者はその条件については配慮していない。その他の条件が一定であるという仮定に基づいて理論をつくる。しかしジャーナリストは一人ひとりの人間を見るわけです。そうすると、個に目が行き過ぎて全体を統一するひとつの理論をつくりあげることができないのです。これがアカデミックとジャーナリズムの違いです。
 ジャーナリストは、自分が見たものを信じ、それをニュースにする。学者は、そういう一人ひとりの情報を集めて並べ、そこから統計的な理論をつくる。そうすると個の情報からは遠く離れてしまう。ジャーナリストと学者というのは、それぞれにこのような特徴があるのです。
 東西ドイツが統一されて間もない頃、ポーランドの方が安いからという理由でドイツの主婦がポーランドでマルクで買物をしていました。
 経済学では、100円の製品があるとすると、20円が原価で80円は労働賃金ということになります。では、ドイツとポーランドではどちらが労働賃金が高いかというと、ドイツのほうが5倍ぐらい高いんです。そうすると、ドイツで100円のものをポーランドで買うと20円で買えるわけです。私は、これが冷戦が崩壊したということの現場での事実なんだとそのときわかったのです。現場の人たちにとって、冷戦が終わる前と終わったあとで何が違うかというと、昨日まで買いに行けなかったところへ買い物に行ける、安いものが買えるようになったということなんです。ジャーナリストはそういうものをいつも追いかけています。個人の生活の話を通して全体を理解させようとしているのです。学者は個人の生活よりも全体を、そして個人を見てもなるべく平等に扱おうとします。それはどちらも正しくてどちらも少し正しくないと思います。
 この話の中からドイツの主婦たちが毎日ポーランドへ安いじゃがいもを買いに行って、ポーランドの労働者がドイツに働きに行くということが続いている間に、両国の物価、労働賃金、経済の水準が等しくなるというのがコンバージアンスの法則です。問題は、この法則は確かに働いているけれども、物理のようにはっきりとは目に見えず、ときとしてその法則に逆行するような現象もあるということです。そこが学者には説明がつかない、絶対に教えない分野です。そういう人的な要因というのはさまざまなところに顔を出す。だからニュースというものが発生し、それを追いかけるジャーナリズムというものが存在するのだと思います。
 ジャーナリストは、このような現象を一つひとつ拾ってきては面白おかしく伝えているわけですが、学者は早くて5年、遅くて10年たたなければ論として確立することはできないだろうと思います。
これは、すべてのイマジネーションの源なんです。
私は学生にいつもこう言っています。「Don’t panick」。何が起こってもパニックを起こすな。そのためには、世界のことをよく知って日本を理解しなさい。そして日本のことをよく勉強して世界に説明できるような力をつけなさいと言っています。それは多分にジャーナリスティックなことでありアカデミックなことであろうと私は思っています。

 

森山英一氏(昭34政)

森山英一氏(昭34政)


森山 英一氏(昭34政) 元福島地検検事正、現中野公証役場公証人
[法律家として]  子どもの頃から歴史が大好きで、歴史家になろうと思っていた。検事だった父が早く亡くなり、一人っ子で皆が法律家になることを期待した。大学に進学して、司法試験の受験を決意したのが高等科3年の時である。
 昭和30年に小田成光氏が大学在学中に初めて試験に合格した。その後、毎年のように合格者が出た。試験のために結成された法学研究会に入部し、勉強したが、受験者が少数で効果が上がらない。当時大学の先生方もあまり熱心ではなかった。困ったのは卒業してから仲間と勉強する場がなかったことである。部外者に開放されている中央大学の答案練習会に参加し、明治大学の研究会の聴講生にもなる。多数の研究会があり、合格者数を競っていた。大学の支援体制や設備が整っていることに驚嘆した。試験には3回目に合格した。
 試験が難しくなり、合格者が高年齢化し、試験の改革が進められている。当時は合格後2年間の司法研修所教育で知識が平均化され、法曹としての一体感が養われたが、新制度では1年間もなく、研修所の良さが失われてしまう。アメリカのロースクールのようにどの法科大学院を出たかによって評価が定まってしまうのではないか。
 検事は独任制の官庁(一人で国を代表する)であり、公益の代表者である。オーム真理教の解散請求は検察官が行った。
 33年間検察官を勤め、現在は公証人をしている。公証人は11世紀のイタリアに起源し、文学作品に多く登場している。仕事は公正証書作成であるが、最近は遺言・離婚等予防司法的なものが多くなっている。

[城の話]  昭和19年戦局が急速に悪化し、学童疎開も始まった。幸い父の転勤で仙台に行くことになった。その頃の仙台は、城下町の面影がよく残っていた。官舎の前の広瀬川を隔てて仙台城の大手門が見えた。当時の仙台は軍都で、仙台城には第二師団の司令部が置かれていた。大手門は伊達政宗が豊臣秀吉から肥前名護屋城の大手門を拝領したといわれ仙台の象徴である。昭和20年7月の戦災で消失し、現在まで復元できていない。
 父の弘前出張で弘前城の絵葉書をもらい、ひどく感激する。城がすっかり好きになった。父に頼んで各地の城の絵葉書を集めてもらった。城の絵を描き、城に関する本を集め、歴史書を読むなど、だんだん病膏盲に入る。昭和21年7月に帰京した。
 輔仁会の部で高等科に史学部があったが、中等科の生徒も参加できるというので入部した。活動内容は考古学で意外に思った。先輩には岡田茂弘、徳川義宣、永田良昭現大学長ら諸先輩がおられた。発掘調査などの合宿もあり体育会系と同じ生活で、今でも親しく付き合っている。
 大学入学後、司法試験に合格するまでは城の研究は休眠した。司法修習生になって、日本城郭協会に入会した。江戸城や外国の城にも関心をもった。明治維新の城が現在どうなっているのか誰も調べていない。まず、城の法制から調べてみたらどうだろうかと考えた。昭和45年に「名城と維新-維新とその後の城郭史」を自費出版した。平成元年に50歳になった記念に明治維新のときに存在した約340の城と陣屋の維新後の変遷と現状をまとめて「明治維新廃城一覧」として新人物往来社から刊行した。現職の検事が城の本を書いたというので、各新聞で取り上げられた。仕事が忙しい時は3、4年も城の研究を中断した。転勤を利用して地の城や陣屋を巡った。また、検事の捜査権と個人の調査の落差に驚いた。検事が捜査で手に入らないものはないが、個人で研究するとそうはいかない。
 人間は暇だと何もしない。自分を制約するものが刺激剤になる。自分をむち打つようなものがないとなかなか事はできない。
 研究の成果としては、関連した事項に関心が広がっていくことである。城に関連して軍事、芸術、宗教など色々な分野に興味を持った。城は歴史がわからないと理解できない。西洋史をかなり学んでようやくヨーロッパの城をいくらか理解できた。 (講演要旨)

 

大三輪 龍彦氏 (昭和40史)鶴見大学文学部教授
 鎌倉の歴史と伝説を尋ねて「秘宝拝観寺社めぐり」の地図を資料に大三輪様の発掘成果を中心に「古都鎌倉の中世都市空間」という掲題でお話を伺いました。

軍事都市から政治都市へ
 鎌倉が大きく変わったのは実朝が暗殺されて、その後1224年に後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げ、承久の乱が起き、幕府側の勝利に終りますが、そこでそれまで公家と武家の二元政権であったのが、一元政権に変わります。武家政権の中心である鎌倉はこの時点から武家政権の軍事都市から政治都市としての顔を持つように変わらざるを得なくなります。ここで要害の地としての軍事都市と多くの人々を受け入れる政治都市とのジレンマが起きます。
 北条泰時の時代(1224年~1242年)に大規模な土木工事が行われ人工的な街づくりがなされました。まずなされたのが通り易い道を作るために尾根を切断することでした。ただしそこから簡単に敵が入れないようせいぜい馬一頭が通れる幅にしました。尾根を断ち割ったものを切り通しといいます。鎌倉では七ヶ所の切り通しが作られました。
 次になされたのが山の斜面、鎌倉の内側を垂直に切り落として、その時に出た土砂を前に埋めたてることでした。その結果、敵が山に登った時は垂直の崖から降りられなくなります。これにより谷ばかりで平地の少をかった鎌倉を埋め立てて平地を増加させました。
 このように軍事的要素を残したままで政治都市への転換が図られ鎌倉の空間利用の変化が起きました。

道路と空間利用
 まず若宮大路を中心軸とし西側には和田塚といったあたりを通っている道、これを今小路といいます、それと八幡宮の鳥居から右の方へ行きますと法戒寺というお寺がありますが、法戒寺から滑川(なめりがわ)を渡ってくる道を小町小路といいます。八幡宮の前を横に通っている道を元小路、二つの川が合流している所を町小路、これら四本の道路で囲まれた内側が鎌倉の中枢部となります。
 その周りに武家屋敷等が作られます。小きな谷と山の頂上に周縁部という空間があります。この空間はそれぞれの意味を持ちます。四本の道に囲まれた中に妙本地・本覚寺等の四つの寺がありますが、これらは室町以降に建てられたものです。するとこの四本の道に囲まれた地域には当初はお寺はなかったということになります。京都でもそうですが、郡市の中心である聖をる空間に死のけがれを持ってくることは嫌います。京都に寺町通りと同様、そこのお寺もすべて後から引っ越してきたお寺です。
 鎌倉では鶴岡八幡宮から若宮大路という聖なる通が南の舞浜という海岸へ向って南北に走っています。若宮大路は最近の発掘調査で側溝がたくさん出てきています。これらは木組みで幅が3m、深さが1.5m位あります。
 東側と西側で調査をしましたが、この間が当時の若宮大路の幅になります。これは33mです。側溝を入れると37mです。側溝はそれぞれの武士たちに命じて作らせたらしく側溝の下から木簡が出てきます。それは一条=3mの寸法でこれに請負った武士の名が書かれています。
 それからもう一つ分かってきたことは、若宮大路のわきに武家屋敷があるのですが、武家屋敷の正面は若宮大路に直接面してなく、勝手に大路には出入りをさせないようになっています。反対側に出入口が作られていました。これはたぶん若宮大路が最終防衛線としての軍事的意味を持っていたのだと思います。幕府の重要な機関は若宮大路の東側に持っていった。西から敵が進入してくることを仮想していたのでしょう。