令和元年6月22日、百周年記念会館にて法学部同窓会総会が開催されました。
総会後は、元「天皇陛下の料理番」で、女子中・高等科元教諭工藤張雄氏(クドシャ)の
ご子息でもある工藤極(くどうきわむ)氏(学習院高等科卒)による講演会が行われました。
「陛下、お味はいかがでしょう」‐昭和と陛下と料理修行-というテーマのもと、
初等科・男子部時代のエピソードや宮内庁大膳課での思い出、工藤先生のお話をユーモア交えて
お話し下さいました。
引き続き行われた懇親会では、院長先生をはじめご来賓、多数の卒業生、現役学生の方々に
お越しいただき、皆様楽しいひと時をお過ごしでした。
また、昨年に引き続き、現役大学応援団の皆様が院歌斉唱と法学部へ力のこもったエールを
送ってくださり大変盛会となりました。
来年も皆様のご参加をお待ちしております。
足元のお悪い中、ご来場誠にありがとうございました。

デジタルサイネージ画像
平成30年6月9日、百周年記念会館にて、法学部同窓会総会が開催されました。
総会後は、テレビでもご活躍中の筑波大学教授中村逸郎氏(本学法学部政治学科卒)
による講演会。
「母校で学んだロシア研究の礎とプーチンの戦略」というテーマのもと、ご自身のご経験や、
母校学習院でのエピソードをユーモア交えてお話し下さいました。
引き続き行われた懇親会では、ソフトヴォイスと2本のギターが奏でるmico with Amaduos
(ギターの安井美香さんは本学文学部仏文科卒)による、おしゃれで落ち着いた雰囲気の漂う
ボサノヴァをお楽しみいただきました。
また、飛び入りで参加してくださいました現役応援団の皆様には、
院歌斉唱と法学部へ力のこもったエールを送っていただき、これまでにない大変盛大な
懇親会となりました。
また来年、皆様のご参加をお待ちしております。
去る平成29年6月3日、百周年記念会館にて、法学部同窓会総会が開かれました。
総会後は「恐れず挑戦を!」と題して、法学部法学科卒業生の脚本家西田征史氏と本学の岩田公雄特別客員教授の対談が行われ、 脚本家ならではの体験談、ご苦労など興味深いお話を伺うことができました。
西田氏は、映像や舞台の脚本・演出を手掛け、NHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」の脚本を担当。
アニメの「TIGER&BUNNY」や「信長協奏曲」などの人気作にも携わり、今年11月には、原作・脚本・監督を手掛けた、映画「泥棒役者」の公開を予定しています。
引き続き行われた懇親会も、学生を含む多数の参加者のもと盛大にとり行われました。
去る平成27年6月20日、学習院大学にて、法学部同窓会総会が開かれました。
講師にテッド・Y・フルモト(古本喜庸)氏をお迎えしての講演会、引き続き行われた南国酒家での懇親会と、学生を含む多数の参加者のもと盛大にとり行われました。古本氏の講演は聴衆を魅了、涙する人も出るほど感動的なお話でした。
平成27年度法学部同窓会総会・講演会
講師 テッド・Y・フルモト(古本喜庸)氏 昭和47年法学部法学科卒
昨年映画化された「バンクーバーの朝日」の著者
演題「バンクーバー朝日軍・伝説の日系人野球チームその歴史と栄光」
テッド・Y・フルモト氏 講演要旨
1887年太平洋定期航路が、香港―横浜―バンクーバーで開通します。
日本は、その頃非常に貧しかったので、政府は、移民政策をとっていました。
しかし、日本人の職場は、林業、漁業、鉱業等、肉体労働しかない。中でも、林業と漁業が主になります。88年漁師は、15人だったが、94年には、日系人の漁師は四千人に達します。
日系人は、勤勉で、真面目なので、白人の3分の1の給料でも、文句も言わず、10時間でも働いている。白人の経営者は喜んで採用します。普通の白人の人達は、仕事をとられるだけでなく、パラダイスであるブリテッシュコロンビア州を乗っ取られるのでないかとますます恐怖を感じます。
そして、1907年9月7日バンクーバー暴動という大事件が発生します。カナダ政府は、暴動をきっかけに、移民を年間400人に制限します。
二世として生まれ、英語を話し、現地の学校に通っても、同じ差別を受けました。人種差別を跳ね除けるために、スポーツをやろう。ルールの中で平等だと、花形だった野球で戦おうと、14年バンクーバー朝日軍が誕生しました。
朝日は、大人の日系人達のチームで優勝した後、19年インターナショナルリーグ(白人)に入りますが、入ったその年にチャンピオンになりました。
しかし、朝日の人達は、カナダ一になりたい。それはマイナーで、その上に、ターミナルリーグがありました。
20年同リーグに加入します。日本でいう企業人野球の一流どころが、揃っていた。実力も全然違いました。朝日の成績もぱっとしません。
そこに、ハリー宮崎が、三代目の監督になります。朝日は、勝ちさえすればいいわけではない。日系人が心から誇りと自信を感じられる勝利でなくてはならない。野球は、単に白人と勝敗を決する戦いの場ではない。日頃、数少ない日系社会と白人社会の交流の場であり、試合を通して、日系人への白人社会の偏見や先入観を正していく場でもあると言い続けました。
26年ターミナルリーグに参戦して7年目ですが、優勝をかけて、戦う決戦の日を迎えます。
この時に、ついに朝日はカナダのチャンピオンになりました。
その後も、朝日は快進撃を続けます。1930年、33年とターミナルリーグ等で優勝します。朝日軍は、カナダ最強のチームと呼ばれました。
この頃選手は、人気アイドル以上で、日系人はもとより、白人でも大変な人気で、子供を入れてくれと、白人の方が畏敬の念をもつほど、偉大な人気になりました。
ところが、1941年カナダ時間12月7日日曜朝の9時半頃、ラジオが、突然重大ニュースを発しました。太平洋戦争の勃発です。
真珠湾攻撃直後、カナダ政府は、日系人を敵性外国人とし、その指導者を逮捕拘禁四十人等という凄まじい処置をとりました。
翌42年日系社会の土台を根こそぎひっくり返す処置をとります。日本の攻撃に備えるという理由で、太平洋沿岸から100マイル以内の地域を防衛地域と定め、日系人を締め出しにかかりました。道路建設の名目で、18歳から45歳の男子を山間部の道路キャンプに、抵抗する者は、戦時捕虜としてアングラー捕虜収容所に送り込みます。家族ごと砂糖大根畑の労働者として、オンタリオ等の各州に送ります。ロッキー山脈の中にある強制収容所は、マイナス30、50度にもなるような不自由なところで、5年間も過ごしたのです。
45年8月14日戦争が終りました。
77年日系移民百年祭が行われました。この時、カナダ政府がとった凄まじい差別の多くの写真が報じられたのです。それを三世が見て、怒りました。抗議の運動をおこします。
88年9月22日、カナダ首相は全カナダ日系人協会に謝罪し、補償し、合意文書に署名しました。
この本を書いた目的は、三つあります。一つは、私の父は、朝日の初代エースピッチャーでした。選手の最後の生き残りであるケンクツカケさんに、活躍した歴史的事実を本に書いて欲しい言われたことです。
二つ目は、今の日本が失いかけている、日本人の心、日本の心を取り戻してほしい、日本人というのは、利他の心です。自分よりも人のために、動作、礼儀、所作、話し方、日本人らしいやり方があります。
三点目は、戦争が起きたら、非戦闘員だった日系カナダ人は、あんなひどい目に、5年間も全財産、全人生を奪われて、大変な苦労をしました。
戦争はしてはいけないと思います。
- 法学部同窓会総会 14時~14時20分 東2号館201演習室
- パネル討論(共同企画) 14時30分~17時 中央教育研究棟301教室
- 交流・懇親会(共同企画) 17時30分~18時50分 東2号館一階ロビー
- <会費>3,000円
※会場にピンク色の小さなノートの忘れ物がありました。お心当たりの方は桜友会事務局で保管しておりますので、お尋ねください。
第1学期の「ホームカミング・デイ」を6月10日(火)~20日(金)に実施いたします。
50周年を記念して法学部専任教員の講義を、本学法学部卒業生(政経学部卒も含みます)が臨時受講できる機会を設けました。科目の時間割等は、下記アドレスをご覧ください(3・4ページ目に記載されています)。ついては学内でのランチ・散策等も兼ねてお出かけください。
科目の時間割
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/law/pdf/20140509.pdf
受講を希望される方は、お名前(卒業学科・年次)と連絡先に加えて、教員・科目名および当該日付(曜日)を記載して、下記の問い合わせ先に6月5日までに送信してください。
なお、臨時受講できる科目はお一人5科目までとさせていただきます。
☆問い合わせ・送信先
law50gj@gakushuin.ac.jp
郵送等の場合の法学部50周年企画委員会の宛先は、
〒171-8588 東京都豊島区目白1-5-1 学習院大学法学部共同研究室内
FAX 03-5992-1006
去る7月7日、学習院創立百周年記念会館にて、法学部同窓会総会が開かれました。 講師に岩田 公雄 氏(昭49卒 )をお迎えしての講演会、引き続き行われた懇親会と、多数の参加者のもと盛大にとり行われました。
平成24年度法学部同窓会総会・講演会
講師 岩田 公雄 氏(読売テレビ放送報道局特別解説委員 昭49法卒)
演題「世界の報道の最前線に立って」
「講演詳細」
世界の報道の最前線にたって
みなさん今日は岩田でございます。どうぞ宜しくお願い致します。昭和49年法学部法学科卒業でマスコミに入って38年目になります。自分は事件記者から入って後に海外の初代マニラ支局長を3年間経験し天安門事件等を経験しました。
まず、なぜこの道に入ったかというと、学生時代すでに、東大紛争とか新宿騒乱とかの場面もあり学習院も同じような状況がありました。そんな学生時代に“なんでこんなことになるのか?”といつも現場に行っていました。ヤジ馬でもない、ノンポリでもない複雑な立場に立っていました。世の中の動きが騒然とする中で、3年のころから“自分は歴史の接点に身を置いて人生を終わりたい。”と痛切に思いました。テレビの記者として入ってみて、出来れば世界の現場に立ってみて伝えることが大事なんだろうと思って、これしかないとマスコミに決めました。“読売テレビ”の最終面接で“なぜマスコミを目指したいのか?”の質問に対し、“自分の人生を歩むのなら、出来れば出来事の接点、歴史の接点に身を置いて人生を進めたい。それで自分の一生をおくれたら本望だ。入らせていただきたい。”と言ったのを覚えています。おかげさまでなんとかもぐりこむことができ、事件記者から始まって現場を見ることになりました。大阪府警のキャップ等を経験し、その後に、フィリピンのマニラ駐在員になります。
最初はマフィアルートの武器密輸事件の取材に行きました。そのような事件の時に、必ず皆が言うのは、“その取材は岩田だ”と。なぜなら、“体が大きくて喧嘩しても勝つかもしれないし、使いべりしない。”ずっと今まで言われ続けて38年なんですね。誰もいまだに知能のことを一つも言ってくれないのが非常に不満であります。取材に行っているときに大変な事件に遭遇します。あの三井物産若王子支店長誘拐事件です。3日間徹夜をして取材しました。
そして、妻を帯同して3年間マニラに行きました。その在任中の最後の部分に1989年6月3日から4日の天安門事件の最終局面、あの血の惨劇事件の現場に立っておりました。戦車100両と機関銃の実弾が飛び交っている中にたっていて、“ああたぶん命を失う瞬間がここできたのだろうな。まあしかしこの道を選んだのだから、歴史の接点に触れたいと。”まさかこんな局面で民主化闘争があんな形の悲劇になるとは。全く想定していないことが現場で起きているわけです。地を吹き出して倒れている人が、リヤカーとか担架で運ばれてたり、撃たれて死んでいる人がたくさんいる現場を見て、“国家とは何か?民主主義とは何か?”を思い、改めて強い憤りを感じて、今でもその部分はトラウマとして残っていますし、現在でも中国を見る視線はそれが外れていないわけです。実はこの取材のなかで日本の記者は、“危ないから中国国外へ出ろ。避難しろ。”と言われている中で、ちょっと命令を無視して最後まで踏みとどまった一人なのですが、CNNの記者から、“なんで日本の記者は居なくなるんだ。”と言われたときに、“日本から命の危険があるから帰れ。”と言われていると答えたときに一言言われたのが、“本当に自分で現場に触れてみて、臭いも嗅いでみないで、何を遠隔から、東京の地から、今こんなことが起きています。ということが伝えられるのだろうか?それは現場にいるから伝えられるのだろう。それは危険だと私も思うよ。でもジャーナリストの道を選んだのだから、当然そうしなければいけないのだろう。乗り越えなければいけないんだ。”と言われたときに私は、“あなたの言う通りだ。もしあなたと将来奇跡的に会うことができたら、私がここを生き延びることができたら、私も現場に踏みとどまっていろんなことを見てきたよ。と伝えたいね。今あなたにはそれしか言えない。”と言ったら、最後手を出して、“そうか。Good Luck!将来どっかで会えたらお互いに頑張ろう”と言われて別れました。その言葉がずっと残っていて、帰ってきてからもマネジメントの世界に行かないで“生涯一記者で終わりたい。”と完全に思いました。
実は、1989年天安門事件の現場で青年4人と肩を組んだ写真があります。2年前でしたか中国人として初めて人権活動家の劉暁波さんがノーベル平和賞をもらいました。ところが、本人は投獄中、奥さんは軟禁中で、結局授賞式に誰も出ることができなかった。という初めてのケースがあったわけですが、天安門事件の当時、惨劇の3日くらい前の時に、学生のリーダーと写真を撮ったのがありました。赤い鉢巻をして汚いTシャツを着た青年4人と肩組んで撮っている写真があり、その中の一人が劉暁波さんでした。あれから23年たっています。経済大国になったのは認めざるを得ませんが、人権とか民主主義とかは、いまだに否定的というか、本当に信頼される大国になるなら、そこも、つきつめてやってほしいと番組でも言っています。
また、北朝鮮は、よくもエネルギーがあったと思いますが、キムイルソン主席が80歳の時に3日間生中継を実現しました。全部自分で企画して交渉して1年かかりました。
あと内戦で虐殺のあったルワンダですが、私が行った時にはホテルは全て破壊されており、命がけの取材でした。全くの無政府状態の国で取材をしました。いまは、一転して優等生みたいな国になっています。こうなったのは教育なのです。もう一回国家建設をはかり、民族対立を乗り越えた。という形になっています。私の見た内戦の現実はあまりにも悲劇的すぎて、記者でなかったらこんな悲劇をみることがなかったのにな。と思って佇んでいました。
今まで記者で良かったな。と思うことは、憧れのアウンサンスーチーさんに自宅軟禁中でしたが、ノーベル平和賞をもらった直後に会うことができました。スーチーさんはキングスインギリッシュですが、私はマニラ英語で単独インタビューに臨みました。パッと出てきた美しさに唖然として英語が出てきませんでした。まさしく“凛としてたおやか”でした。軟禁から解放されたのは、やっと今年です。軍事政権のカモフラージュかどうかはもう少し見なければいけませんが、ただ、ミャンマーは動き始めていますから元に戻らないと思います。非常に優秀な英語のできる民族です。工場を作るにしても何にしても有望な場所なので、世界がどんどん進出していく中で、日本がちょっと遅れているのではないかと言われています。ですから、ミャンjマーが変わってくれれば有難いと思ってみています。
日本が今後の成長戦略含め極めて大事な時に来ているときに、“政治がこういう状況で果たしていいのか?日本が将来アジアの孤児にならないようにするためにどうしたらいいか?”みなさん考えなければいけない時だと思うのです。日本のこれからの若い人の教育の問題とか、もう一度作り上げなければならないと思います。かつての明治維新の日本。終戦後の日本みたいに、エネルギーを統一して日本の再生を図ろうとしている中で、技術とかが外国に負けているわけではありません。これからはやはり海外です。今日も竹中さんと一緒でしたけど、“岩田さんね。ダボス会議のアジア版をやったとして、韓国人が運営したら、全ての分科会を英語で行っても誰も困らない。”と言われました。日本ではそうはいきません。やっぱり教育の問題は大事です。これからの学生にどういう環境を作ってあげて、学習院という素晴らしい環境の中で、かつ学生一人一人に意思を持たせるような教育をしていかなければダメだと思います。学習院は、環境が良くてのんびりして、確かにいい生徒さんばかりだと思いますけれども、もう一度先輩方が強い意思をもって生きてきたように、一人でも自立して飛び込んでいくような生徒をどんどん輩出して、世の中に出て行って、日本の再生とか、輝ける時代を築く学習院の後輩が出てくるのを期待するとともに、その一助となるなら、またいろいろなことをやらせていただければと思っています。最近は桜友会のバッジをつけてほとんど番組に出ています。今はプロデューサーもあきらめて、“また学習院のバッジをつけているよ。”と言われていますが、これからも胸にはバッジをつけて活動していきます。学習院のさらなる発展の一翼になれればと思っております。まだまだ現役として、本当に、生涯一記者と思っていますので、会社からとか世の中から、“もういいよ”と言われないように、張り切ってもうしばらくはやらせていただきますので、是非またご指導ご鞭撻宜しくお願い致します。
ご清聴有難うございました。