第19回法学部同窓会総会のご報告

On 2012年9月1日, in 総会, 行事報告, by hougakubu-yoshida

去る7月7日、学習院創立百周年記念会館にて、法学部同窓会総会が開かれました。 講師に岩田 公雄 氏(昭49卒 )をお迎えしての講演会、引き続き行われた懇親会と、多数の参加者のもと盛大にとり行われました。

平成24年度法学部同窓会総会・講演会

講師 岩田 公雄 氏(読売テレビ放送報道局特別解説委員 昭49法卒)

演題「世界の報道の最前線に立って」

「講演詳細」

世界の報道の最前線にたって

みなさん今日は岩田でございます。どうぞ宜しくお願い致します。昭和49年法学部法学科卒業でマスコミに入って38年目になります。自分は事件記者から入って後に海外の初代マニラ支局長を3年間経験し天安門事件等を経験しました。

まず、なぜこの道に入ったかというと、学生時代すでに、東大紛争とか新宿騒乱とかの場面もあり学習院も同じような状況がありました。そんな学生時代に“なんでこんなことになるのか?”といつも現場に行っていました。ヤジ馬でもない、ノンポリでもない複雑な立場に立っていました。世の中の動きが騒然とする中で、3年のころから“自分は歴史の接点に身を置いて人生を終わりたい。”と痛切に思いました。テレビの記者として入ってみて、出来れば世界の現場に立ってみて伝えることが大事なんだろうと思って、これしかないとマスコミに決めました。“読売テレビ”の最終面接で“なぜマスコミを目指したいのか?”の質問に対し、“自分の人生を歩むのなら、出来れば出来事の接点、歴史の接点に身を置いて人生を進めたい。それで自分の一生をおくれたら本望だ。入らせていただきたい。”と言ったのを覚えています。おかげさまでなんとかもぐりこむことができ、事件記者から始まって現場を見ることになりました。大阪府警のキャップ等を経験し、その後に、フィリピンのマニラ駐在員になります。

最初はマフィアルートの武器密輸事件の取材に行きました。そのような事件の時に、必ず皆が言うのは、“その取材は岩田だ”と。なぜなら、“体が大きくて喧嘩しても勝つかもしれないし、使いべりしない。”ずっと今まで言われ続けて38年なんですね。誰もいまだに知能のことを一つも言ってくれないのが非常に不満であります。取材に行っているときに大変な事件に遭遇します。あの三井物産若王子支店長誘拐事件です。3日間徹夜をして取材しました。

そして、妻を帯同して3年間マニラに行きました。その在任中の最後の部分に1989年6月3日から4日の天安門事件の最終局面、あの血の惨劇事件の現場に立っておりました。戦車100両と機関銃の実弾が飛び交っている中にたっていて、“ああたぶん命を失う瞬間がここできたのだろうな。まあしかしこの道を選んだのだから、歴史の接点に触れたいと。”まさかこんな局面で民主化闘争があんな形の悲劇になるとは。全く想定していないことが現場で起きているわけです。地を吹き出して倒れている人が、リヤカーとか担架で運ばれてたり、撃たれて死んでいる人がたくさんいる現場を見て、“国家とは何か?民主主義とは何か?”を思い、改めて強い憤りを感じて、今でもその部分はトラウマとして残っていますし、現在でも中国を見る視線はそれが外れていないわけです。実はこの取材のなかで日本の記者は、“危ないから中国国外へ出ろ。避難しろ。”と言われている中で、ちょっと命令を無視して最後まで踏みとどまった一人なのですが、CNNの記者から、“なんで日本の記者は居なくなるんだ。”と言われたときに、“日本から命の危険があるから帰れ。”と言われていると答えたときに一言言われたのが、“本当に自分で現場に触れてみて、臭いも嗅いでみないで、何を遠隔から、東京の地から、今こんなことが起きています。ということが伝えられるのだろうか?それは現場にいるから伝えられるのだろう。それは危険だと私も思うよ。でもジャーナリストの道を選んだのだから、当然そうしなければいけないのだろう。乗り越えなければいけないんだ。”と言われたときに私は、“あなたの言う通りだ。もしあなたと将来奇跡的に会うことができたら、私がここを生き延びることができたら、私も現場に踏みとどまっていろんなことを見てきたよ。と伝えたいね。今あなたにはそれしか言えない。”と言ったら、最後手を出して、“そうか。Good Luck!将来どっかで会えたらお互いに頑張ろう”と言われて別れました。その言葉がずっと残っていて、帰ってきてからもマネジメントの世界に行かないで“生涯一記者で終わりたい。”と完全に思いました。

実は、1989年天安門事件の現場で青年4人と肩を組んだ写真があります。2年前でしたか中国人として初めて人権活動家の劉暁波さんがノーベル平和賞をもらいました。ところが、本人は投獄中、奥さんは軟禁中で、結局授賞式に誰も出ることができなかった。という初めてのケースがあったわけですが、天安門事件の当時、惨劇の3日くらい前の時に、学生のリーダーと写真を撮ったのがありました。赤い鉢巻をして汚いTシャツを着た青年4人と肩組んで撮っている写真があり、その中の一人が劉暁波さんでした。あれから23年たっています。経済大国になったのは認めざるを得ませんが、人権とか民主主義とかは、いまだに否定的というか、本当に信頼される大国になるなら、そこも、つきつめてやってほしいと番組でも言っています。

また、北朝鮮は、よくもエネルギーがあったと思いますが、キムイルソン主席が80歳の時に3日間生中継を実現しました。全部自分で企画して交渉して1年かかりました。

あと内戦で虐殺のあったルワンダですが、私が行った時にはホテルは全て破壊されており、命がけの取材でした。全くの無政府状態の国で取材をしました。いまは、一転して優等生みたいな国になっています。こうなったのは教育なのです。もう一回国家建設をはかり、民族対立を乗り越えた。という形になっています。私の見た内戦の現実はあまりにも悲劇的すぎて、記者でなかったらこんな悲劇をみることがなかったのにな。と思って佇んでいました。

今まで記者で良かったな。と思うことは、憧れのアウンサンスーチーさんに自宅軟禁中でしたが、ノーベル平和賞をもらった直後に会うことができました。スーチーさんはキングスインギリッシュですが、私はマニラ英語で単独インタビューに臨みました。パッと出てきた美しさに唖然として英語が出てきませんでした。まさしく“凛としてたおやか”でした。軟禁から解放されたのは、やっと今年です。軍事政権のカモフラージュかどうかはもう少し見なければいけませんが、ただ、ミャンマーは動き始めていますから元に戻らないと思います。非常に優秀な英語のできる民族です。工場を作るにしても何にしても有望な場所なので、世界がどんどん進出していく中で、日本がちょっと遅れているのではないかと言われています。ですから、ミャンjマーが変わってくれれば有難いと思ってみています。

日本が今後の成長戦略含め極めて大事な時に来ているときに、“政治がこういう状況で果たしていいのか?日本が将来アジアの孤児にならないようにするためにどうしたらいいか?”みなさん考えなければいけない時だと思うのです。日本のこれからの若い人の教育の問題とか、もう一度作り上げなければならないと思います。かつての明治維新の日本。終戦後の日本みたいに、エネルギーを統一して日本の再生を図ろうとしている中で、技術とかが外国に負けているわけではありません。これからはやはり海外です。今日も竹中さんと一緒でしたけど、“岩田さんね。ダボス会議のアジア版をやったとして、韓国人が運営したら、全ての分科会を英語で行っても誰も困らない。”と言われました。日本ではそうはいきません。やっぱり教育の問題は大事です。これからの学生にどういう環境を作ってあげて、学習院という素晴らしい環境の中で、かつ学生一人一人に意思を持たせるような教育をしていかなければダメだと思います。学習院は、環境が良くてのんびりして、確かにいい生徒さんばかりだと思いますけれども、もう一度先輩方が強い意思をもって生きてきたように、一人でも自立して飛び込んでいくような生徒をどんどん輩出して、世の中に出て行って、日本の再生とか、輝ける時代を築く学習院の後輩が出てくるのを期待するとともに、その一助となるなら、またいろいろなことをやらせていただければと思っています。最近は桜友会のバッジをつけてほとんど番組に出ています。今はプロデューサーもあきらめて、“また学習院のバッジをつけているよ。”と言われていますが、これからも胸にはバッジをつけて活動していきます。学習院のさらなる発展の一翼になれればと思っております。まだまだ現役として、本当に、生涯一記者と思っていますので、会社からとか世の中から、“もういいよ”と言われないように、張り切ってもうしばらくはやらせていただきますので、是非またご指導ご鞭撻宜しくお願い致します。

ご清聴有難うございました。

 

 

 

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