第16回 法学部同窓会総会・講演会(要旨)

「寄りかからず―清少納言と柱」

永井和子 学習院女子大学名誉教授

平成21年7月18日 百周年記念会館にて

本日は「寄りかかる」という身体的・精神的な姿勢について、平安時代の文学や現代の詩との関わりから資料をもとにお話したいと思います。

平安時代、中宮定子に仕えた清少納言の『枕草子』には「春はあけぼの・・・」で始まる約三百の章段があります。清少納言が精神的に「寄りかか」ったものを大まかに辿ると、まず自分自身、宮仕え後は中宮定子、定子没後はその思い出、そして自分自身に回帰、といったところでしょうか。身体的には「柱」に寄りかかった記述がありますので、この柱を主題として述べることに致します。

当時の寝殿造りの柱は直径30cm程で、柱と柱の間隔は建物毎に一定しておりその間を一間と申します。仏教伝来の影響とも言われるこうした立派な寝殿造りは、柱で囲った空間を屋根で覆い床を張った構造で、簾・帷子(かたびら)・几帳・帳・壁代・障子、屏風等の可動的で柔らかい遮蔽物により大空間を区切ります。従って坐る人間が寄りかかることができたのは、周辺に巡らされた不動の柱です。こうして柱は単に構造上の必然性だけではなく、生活空間の中で人間に密着して、非常に強い親近性の有る一つの場を成しておりました。

『枕草子』に登場する柱の機能に目を転じますと、「ものをつける」「そばに身を置く」「寄りかかる」と大きく三分できます。まず「つける」その「もの」は、薬玉や九月九日の菊等で、この機能は現在も変わらないでしょう。また「身を置く」のは、柱を目安として場所を示したり、恥ずかしがって蔭に隠れる、即ち、柱を遮蔽物として使ったりする場合で、これも今と変わりません。

三つ目の「寄りかかる」状態が本日の主題と重なるもので、数の限られた柱に寄りかかるのですから、結論的に言うと特権的な姿勢であったと考えられます。『枕草子』の内容を時系列で見ると宮仕えの初期には一条天皇や藤原道隆が寄りかかる記述があり、清少納言は柱に隠れておりました。少し後になると「廂の柱に寄りかかりて、女房と物語などしてゐたるに」(96段)のように作者の動作として記されるようになります。緊張の時期から、柱に寄りかかることができるほどに慣れた時期に至ったと言えましょう。しかし『枕草子』の柱はあくまで柱であり、必ずしも情緒的な意味を持たせているわけではありません。

『源氏物語』では、柱とそれに寄る人間との関係はかなり意識的です。柱に隠れる、或いは遮蔽物とする人は空蝉・紫上・玉鬘・中君等すべて女性。寄る人は尼君・源氏・明石君・真木柱・薫等で、身体の緊張を解いた静止状況に在って内面的な思考へと叙述が導かれる場面が多く見られます。またそれぞれが特定の「自分の柱」を持ち、身体の匂いが染み込んだ柱は人と一体化し、寄った人の記憶をよびさますことによって不在者の象徴ともなります。「須磨」の巻に、源氏が須磨に退去したあとで「(源氏が)寄りゐたまひし真木柱を(紫上は)見たまふにも胸のみふたがりて・・・」という一文があり、檜の立派な柱を真木柱と称しますが、紫の上は柱に寄って不在者源氏を偲んでおります。「真木柱」の巻には、髭黒大将が玉鬘と結婚したために、もとの北の方は姫君の真木柱を連れて実家の式部宮邸にお帰りになってしまった、という話が描かれます。姫君は紙に歌を書き、慣れ親しんだ柱のひび割れに差し込みます。「今はとて宿離(か)れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな」という歌で、ここでは柱を自立した他者として呼びかけ、移動する人間と対比して固定した存在である柱を、情報伝達の具とする場面が見られます。

柱は人間の居住性にとっては不要かもしれませんけれど、人はこうして柱の多面性を活かし折り合いをつけ、拠り所とし、不安定な心身を支えて来ました。本来が高い天空を目指して森に息づく樹木でありこうした神聖な存在としての把握は現在も受け継がれております。同時に平安文学から見ると、それぞれの作品が寝殿造りに有る柱をそれぞれ固有に把握して描いていることが判ります。古今東西を通じて同様な傾向がありましょうが、こうして柱は内部空間を仕切る微妙な境界性を含みながら人間の生きる場を豊富に形成して来ました。

2006年に亡くなった茨木のり子さんに「倚りかからず」という詩があります(『倚りかからず』所収 筑摩書房 1999・10)。「もはや できあいの思想には倚りかかりたくない」で始まり、「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」と締めくくられているこの詩は非常にすばらしいものです。「寄りかかる」という面のみで申しますと、人間は他に寄りかからなければ存在し得ないという認識と同時に、椅子が存在する近代社会を前提としております。正座が一般化するのは明治以降という考え方もありますが、現在の私達は平面に座位を長く保つのは大変難しくなりました。当時から最近まで日本人は平面に坐った状態で自立し、緊張を解く場合は柱に寄りかかる等の工夫をして心身のバランスをとっておりましたけれど、近代に至って椅子に寄りかかる姿勢が普通となりました。坐る文化から椅子文化への変化は精神構造の変化と無関係でしょうか。そして日本人はまだ椅子に坐る文化には馴れてはおらず過渡的状況にあると思います。「寄りかかる」と「柱」という言葉を巡って清少納言や紫式部が示すように、平面でも椅子でも、坐る姿勢に在って自分の心身を自在に保つ形を探し当てることは、生き物として基本的な、非常に大切なことと私は考えております。

[PROFILE]

女子学習院初等科、学習院女子中等科を経て昭和28年学習院女子高等科を卒業。昭和32年お茶の水女子大学卒業。昭和35年学習院大学大学院修士課程修了。平安時代を中心とする日本文学、老人と文学などが研究分野。

 

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