2月 13 2018

江東桜友会はこうして誕生した

第1回 総会 1998/2/21 於:ホテルイースト21

平成29年3月吉日
江東桜友会名誉会長(初代会長)
小関忠徳

【はじめに】
会社の工場建て方、立ち上げ屋として、オーバーな表現であるが、世界各地と木場との間を行ったり来たりの人生。特に、佐倉工場に通算15年間、5年間のタイ駐在、10年に及ぶ青森生活を終えて完全に帰京したのは平成9年4月であった。著名な長谷川木材(株)の長谷川剛社長の後任として突然、江東ケーブルテレビ(株)を引き継ぐ命を受けた。そして東京新聞の主管編集者として活躍され、CATVの常務として出向されていた文化人、三上氏の紹介で得たのが、熱意の人、浅草慶子さんとの出会いであった。それは卒業して5年後の評議員時代の3年間以降走り回っていたので足が向けられなくなった学習院の門を再びくぐるきっかけともなったのである。
「小関さん、江東区の音楽家に呼びかけて結束しようとしておられる大変情熱的な方と是非会って下さいよ。凄い迫力のある方ですよ。」
高等科まで学習院で過ごし、音楽の道である洗足学園大学音楽過程でクラシックシャンソンの道に進んだ浅草さんは、学習院にこよなく思い入れを持ち、学習院の卒業生の方々との多方面な知己を持たれていた。浅草さんの思いは江東区内の卒業生の会を作り、同窓の絆を強くする夢であった。-

平成29年2月7日(火)、平野町の蕎匠で行われた新年会で参加者がそれぞれに近況と新年の放談を行って楽しい一時を過ごした。私がなんとなく設立の思い出を語ったところ、内野幹事長から「文章化しておいてほしい」との話が出された。少ない紙面では全てを語りきれないが、現役の皆様が活発に活動をされているお働きに報いるのは、81歳を越した今、これも務めかとワープロを叩く次第である。日月などの具体的な資料は既に手元を離れ、引き継いだので話として聞いておいて戴きたい。

又ここまで盤石の基盤を築いて戴いた20年に及ぶ多くの役員の皆様。ご奉仕を戴いた皆様のご功績を述べたいところであるが、あまりにも膨大なお話となるので、設立時のお話に留めさせて戴いた。以降の記録は次世代の皆様に譲りたい。とにかく全ての役員の皆様と会を盛り上げて戴いたご参会の皆様、学習院ご当局、桜友会本部の役員の皆様に心からの感謝を申し上げる次第である。

【初めての顔合わせ】
東陽町駅の交差点から海側100mの角に神戸製鋼(株)の資本が入った東京サニーサイドホテルがあった。その中に浅草さんが懇意にしていたレストランがあって、以来常設の打合せ場所となり、総会も2度ほど開催したことがある。支配人にもレストラン担当にも親切丁寧で好意的に対応して戴いた。浅草さんが出席者への連絡係を務めて下さったが、交通の便も良く、名も知れていたので初回から集まりが良く、打合せには誠に適切な場所であった。
第二代の田中会長、松村副会長、第四代の田中会長、竹口現会長、笹本現副会長、内野現幹事長、塚本現副幹事長、村井氏、酒井氏、熊野氏、大宮氏、香月氏、飯野氏、庄司氏、立石氏等々の皆様はご多忙の中、良く時間をさいて出席して戴いた。それも浅草さんの功績が大きかった。
学習院の桜の下に集った方々の話は早かった。初回にして江東桜友会の設立を話し、日時、会場確保など、とんとん拍子に話が進んだ。
次回は役割分担の話となり、最大の難関である会員への告知方法でアイディア続出であった。

【とにかく総会を開き、会を組織化しよう】
設立の目的は「会員を知ること=親睦」の一点で合意したのが印象的であった。
「江東区という地域でくくられる中で顔をまず合わせましょう。難しいことではなく、一年に一回の総会をきっかけとして親睦、即ち趣味の展開、山歩き、ゴルフ、観賞、資料交換、情報交換、特に互いの仕事情報等々、絆を深めることになっていければ。そのためには先ず、旗を挙げることが大事ではないか。とにかく総会を開こう。その準備の過程できめ細かく話し合いをしていこう」との嬉しい全員の賛同であった。
その後一ヶ月に一度位の頻繁な下準備の会合が翌年の1月まで続いた。1.5時間程の打合せ、1.5時間程の食事歓談が定番であったが、実に楽しい爆笑のある会合であった。
勿論、初回は自己紹介から始まったが、「そう言えば学習院の傘の下のどこかでお会いしていたのですね」との親近感があったから、まとまりも絶妙に早かった。

【多くのご奉仕精神に支えられての準備】
大宮さんが「なにもできないけれど宛名書きがあればご遠慮なくご用命ください。」
庄司さんが「仕事の関係で日中はダメですが、当日でしたらなんでもやりますよ。特に会計でしたら、家内ともどもお手伝いさせてください。」
香月さんが「電話でしたら仕事で慣れていたのでしますよ。どうぞご遠慮なく。」

一番の難関であった事務局の連絡先は、香月さんから「私のところで良ければ使って結構ですよ。家内も字を書くのが好きですから。」との有り難いお申し出があり、奥様の積極的なご奉仕も得て、ご返事の集約、整理、ご質問への連絡、名簿作りは
100%うまく進んだのである。

特に二代目の田中会長と松村副会長にはことの他お世話になった。
必ず準備会に出席して下さったし、懸案事項についても積極的なご示唆を戴き、必ず結論を良い方向にまとめて戴いた。後日の資金集めの総会では、お二人から率先してそっと過分のご奉仕品を頂戴し、会員を喜ばせたものであった。

松村副会長には、薬剤業界において指導的なお立場から、総会での「お話」もお願いした。「私でよかったら」との謙虚なお言葉のなかに会の繁栄を願っているお気持ちを頂戴し感激したものであった。立派な有意義な「お話」であった。
残念ながら、病をえられ故人となられたが、その年の総会にご体調を押してご出席戴き「立派な江東桜友会になって嬉しいですね」とお喜びのお言葉を戴いたのが未だに忘れられない。私も胃の薬では何度もお手を煩わし、その都度ご丁寧なご説明を戴いた。
その後薬剤師の道を進んでいらっしゃるご息女の吉田理華さん(江東桜友会員)が御奥様を車椅子で総会にご案内くださり、親しくご挨拶させて戴く機会を得た。「松村様が居られたからこの江東桜友会の今日があるのです。」とお礼を申し上げたら喜んでおられたのが心に残る。江東桜友会に残された松村副会長の偉業に心からの感謝を申し上げたい。

もう一人、準備会を愉快なお話で楽しく盛り上げて下さったのが熊野将さんだった。奉仕の言葉にぴったりの方だった。
山男で尾瀬と日光光徳小屋に詳しかったので、準備会のメンバーを誘って案内役をかって出てくれた。静岡と江東に会社を持ち、それこそ行ったり来たりの毎日であったが、会の為に良く尽くしてくれた。ひょうひょうとした人柄が懐かしいが、病を得てしまわれた。心からご冥福をお祈り申し上げたい。惜しい人材をなくしてしまった。

【思い出に残る名場面】
準備会でのアトラクションの決めは実は楽だった。なにせ当時パリ祭を沸かしていたシャンソン歌手の浅草さんがおられたのですから。第一回総会アトラクションは圧巻であった。フィナーレの愛の賛歌が未だに脳裏に残る。然し数年前銀座でステージを終えた直後に倒れ、その後厳しい試練を乗り越えて今はご息女と手廻しオルガンで震災基金を集め、持ち前の能力をフル回転させて他様への奉仕活動中である。本当に立派な素晴らしい信念の方であり、江東桜友会の今があることを肝に銘じると共に誇りにしたい。
ご奉仕に携わる方々には尊敬と感謝の念が湧く。江東桜友会の誕生の際の主旨が強く定着していることの証として感銘を受けたシーンを記載させて戴きたい。初代会長としての名場面と思う一節の披露もお許し戴きたい。
ご奉仕の思い出のページは枚挙にこと欠かないので、今、誰でもご存知の現役員に関わることについてのみに限って記載することのお許しも戴きたい。役員の心遣いに感謝をもって。

第3回 総会 2000/2/19 於:サニーサイドホテル

【現会長のご奉仕】
竹口会長と奥様の久美子様の奉仕精神のご紹介のシーンである。
竹口会長は忠臣蔵の名場面、永代橋際で疲れた義士に一服の甘酒をふるまった竹口作兵衛の17代目の甥であり、現在も橋の近くに多くのビルを有する旧家である。三年毎の富岡八幡例大祭で、永代橋からの神輿の名場面が直接見えるビルからの眺めが特等席になり、江東桜友会として2度ほどお世話になった。会員は皆見事な光景に驚きの声を上げた。そしてご夫妻のきめ細かいご配慮にあずかったのである。前回はお嬢様にもお手伝いを戴いて竹口一家の総動員である。いろいろなお客様のなかで、学習院にゆかりのある方を快く受け入れて下さっている。日頃の会長として様々なご配慮の上になんとも有り難く恐縮するのであるが、これが学習院の友がきとして甘えていられ、感謝のみの一例である。会員の皆様もご同様の気持ちとの事である。

大変恐縮なもの言いであるが、江東桜友会の絆づくりの成せる技ではなかろうか。

更に江東桜友会では区内ハイキングと称して、森下の俳句館から義士の遺跡のあるところ、即ち、竹口会長宅前まで漫ろ歩きを楽しんだ企画に参加させて戴いたことがある。
これまた、奥様の奉仕に甘えたのである。三々五々に到着する会員を迎えて、遺跡の解説、お茶の接待、商品のちくま味噌のお土産等、大変なご奉仕を目の前で見せて戴いた。これが桜友会かと力強く感じたシーンである。

久美子奥様とは、よく塚本拓弥君(江東桜友会員)の舞台鑑賞でご一緒した。終わった後の食事の一時も楽しかった。幅広いご趣味のなかで演劇がお好きなこともあるがそれより会員を応援する気持ちが私には嬉しく感じられた一幕であった。これが学習院の絆だと。

【三役のご奉仕】
それぞれの代の役員に会の下支えを一生懸命にやって戴いている。そして会・組織が成り立って会員はそのご奉仕を享受している訳だが、役員の勤めと言えばそれまでだが一度は書いておきたいと思っていたことである。とにかく感謝である。

笹本副会長には設立時からなにかと下支えをしてもらってきた。とにかく几帳面で良く動くし、いやとは言わない。人柄の良さは学習院の典型で、なんでも頼める体質を持つ。会合の時には常に旗を持ち、会の進行の奉仕を願っている。準備会の時も様々な連絡係をしてもらった。特に有り難かったのは会社の事務所を連絡ポストにして戴いたことだ。大きな自動車の整備工場であるが、度々お邪魔しているうちに私と娘の車のお世話までしてもらうようになった。嫌な顔一つしないで、こんなご苦労が早くも20年も続いている。責任感旺盛で信頼のできる人が会にいてくれることで揺るぎのない江東桜友会が楽しくできる所以と思っている。感謝であり、今後とも会の支えをお願いしたい。

内野幹事長は筆舌に尽くせない感性の持ち主である。やはり神に仕える身だからかなぁ、と感心しているうちに20年の歳月が流れた。司会の名手でもあり、多くの絶妙の世界の演出をしてもらった。会も盛り上がり、自然に江東桜友会には神様がいる、とまで言われるようになった。各種打合せの会場のご提供も戴いた。奥様にも大変お世話になった。圧巻だったのは、地域ツアーの折、神殿に多くの会員と参内させて戴き、内野宮司自らの祝詞を言上して戴いたことだ。
ご奉仕というよりか神代の国に生まれ、学習院の名の祝詞を拝聴したことの喜びを荘厳な神殿の中で味わうことが出来たことである。そのご縁で、お誘いを受け、節分の豆蒔きまで体験させて戴いた。帽子を持って豆を待つ子供達の可愛い顔が忘れられない。とにかく人の妙を心得た白馬に乗った宮司様、永遠の神明様に心から感謝申し上げたい。

塚本副幹事長があって江東桜友会が成り立っている。代々の会長は上手に仕事を塚本さんに頼んでいる。とにかくパソコンのプロであるのと、文章が天才的である。仕事が早いのと上手に情報を発信して人間関係の円滑化に貢献している。こんな方がいるのも江東の強みである。最近はサンバに凝っておられるが、ご主人ともどもなかなかのものらしい。
親子の愛情の権化であり、拓弥君の舞台では泣かされた。素晴らしい人柄である。

前述した現四役は設立総会に向けて努力戴いた功績者でもあるので恐縮であるが、台所方の陰の心遣いの一例を奉仕活動としてご紹介した。まだまだ語らなければならない方々がおられるが、今回は紙面の関係もあり省かせて戴く失礼をお許し戴きたい。

【設立総会の慌ただしさ】
浅草さんを中心として集まった会は東京で初めての地域桜友会設立準備幹事会として、桜友会本部から承認されて活動することになった。本部では、国外をはじめ県単位では承認されているものの、東京都内では初めての試みとして歓迎・注目されるとともに期待された。設立総会にご来賓として当時の院長、桜友会長のご臨席を戴いた経過でもある。
余談であるが、その後職域桜友会への刺激となり、これを契機に続々誕生していくのである。
この時目白で各種の相談に乗り、院長・本部会長への下話をして戴いたのが私の同期生であった前田人事部長であった。その彼に設立総会での乾杯の発声をお願いしたが、時を経て病に倒れ、故人となられてしまわれた。現況を見て草葉の陰で喜んでおられることであろう。

幹事の皆様は驚くほど人脈が多く、設立総会に向けての活動は手慣れたものがあった。
その一例として、ホテルイーストで、笹本副会長が法人会に、内野幹事長が氏子総会に、小関がロータリークラブの定例会場として利用していたこと。ホテルの場所が鹿島建設(株)創業地であり、CATVの株主が鹿島建設(株)であった事も幸いし、第一希望日が難なく押さえられ特別の厚意で多くの演出が可能となった。例年ご出席戴き過分なご芳志を戴いている秋山桜友会副会長は鹿島建設(株)の副社長であられた。
手分けをした会員への広報活動も功を奏し、目標の80名を突破して嬉しい悲鳴を上げたものだった。
幹事の努力の賜物であったが、会の組織化と舟遊び、バーベキュー等会員親睦に尽力した田中四代目会長が江東桜友会設立趣意書とご案内書を幸いに保管して下さっていたので、別添し記録としたい。更に平成10年2月21日(土)に開催された総会VTR記録があるので語らなければいけない幹事の皆様の多くの奉仕活動・諸事はそこに譲りたい。

会設立の発起人代表としてまとめとするならば、20年に及ぶ会の活動を称え、江東桜友会の今があるのも学習院を愛する歴代の会長を始めとする役員のご奉仕魂、並びに会友、学習院長、桜友会長、本部のご理解、ご支援の賜物である。心から感謝としたい。

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