大三輪 龍彦氏 (昭和40史)鶴見大学文学部教授
 鎌倉の歴史と伝説を尋ねて「秘宝拝観寺社めぐり」の地図を資料に大三輪様の発掘成果を中心に「古都鎌倉の中世都市空間」という掲題でお話を伺いました。

軍事都市から政治都市へ
 鎌倉が大きく変わったのは実朝が暗殺されて、その後1224年に後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げ、承久の乱が起き、幕府側の勝利に終りますが、そこでそれまで公家と武家の二元政権であったのが、一元政権に変わります。武家政権の中心である鎌倉はこの時点から武家政権の軍事都市から政治都市としての顔を持つように変わらざるを得なくなります。ここで要害の地としての軍事都市と多くの人々を受け入れる政治都市とのジレンマが起きます。
 北条泰時の時代(1224年~1242年)に大規模な土木工事が行われ人工的な街づくりがなされました。まずなされたのが通り易い道を作るために尾根を切断することでした。ただしそこから簡単に敵が入れないようせいぜい馬一頭が通れる幅にしました。尾根を断ち割ったものを切り通しといいます。鎌倉では七ヶ所の切り通しが作られました。
 次になされたのが山の斜面、鎌倉の内側を垂直に切り落として、その時に出た土砂を前に埋めたてることでした。その結果、敵が山に登った時は垂直の崖から降りられなくなります。これにより谷ばかりで平地の少をかった鎌倉を埋め立てて平地を増加させました。
 このように軍事的要素を残したままで政治都市への転換が図られ鎌倉の空間利用の変化が起きました。

道路と空間利用
 まず若宮大路を中心軸とし西側には和田塚といったあたりを通っている道、これを今小路といいます、それと八幡宮の鳥居から右の方へ行きますと法戒寺というお寺がありますが、法戒寺から滑川(なめりがわ)を渡ってくる道を小町小路といいます。八幡宮の前を横に通っている道を元小路、二つの川が合流している所を町小路、これら四本の道路で囲まれた内側が鎌倉の中枢部となります。
 その周りに武家屋敷等が作られます。小きな谷と山の頂上に周縁部という空間があります。この空間はそれぞれの意味を持ちます。四本の道に囲まれた中に妙本地・本覚寺等の四つの寺がありますが、これらは室町以降に建てられたものです。するとこの四本の道に囲まれた地域には当初はお寺はなかったということになります。京都でもそうですが、郡市の中心である聖をる空間に死のけがれを持ってくることは嫌います。京都に寺町通りと同様、そこのお寺もすべて後から引っ越してきたお寺です。
 鎌倉では鶴岡八幡宮から若宮大路という聖なる通が南の舞浜という海岸へ向って南北に走っています。若宮大路は最近の発掘調査で側溝がたくさん出てきています。これらは木組みで幅が3m、深さが1.5m位あります。
 東側と西側で調査をしましたが、この間が当時の若宮大路の幅になります。これは33mです。側溝を入れると37mです。側溝はそれぞれの武士たちに命じて作らせたらしく側溝の下から木簡が出てきます。それは一条=3mの寸法でこれに請負った武士の名が書かれています。
 それからもう一つ分かってきたことは、若宮大路のわきに武家屋敷があるのですが、武家屋敷の正面は若宮大路に直接面してなく、勝手に大路には出入りをさせないようになっています。反対側に出入口が作られていました。これはたぶん若宮大路が最終防衛線としての軍事的意味を持っていたのだと思います。幕府の重要な機関は若宮大路の東側に持っていった。西から敵が進入してくることを仮想していたのでしょう。

 

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