愛媛県の紹介
江戸時代の「伊予の国」は、8つの藩と幕府直轄の天領に分かれており、8つの藩は「伊予8藩」(西条藩・小松藩・今治藩・松山藩・大洲藩・新谷藩・吉田藩・宇和島藩)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県とその後の再編成で明治21年に現在の愛媛県が誕生しました。
愛媛県の花 みかんの花 県の木 まつ 県の獣 ニホンカワウソ
県の鳥 コマドリ 県の魚 マダイ
人口 142万3.485人(平成23年) 面積 5.678平方キロ(全国38位)
愛媛の山 石鎚山 1.982メ-トル (西日本一のたかさ誇る霊峰です)
農産物 みかん(全国2位) キウイフルーツ(1位) 裸麦(1位)
林産物 ヒノキ素材(全国1位) 木ろう(2位) 乾しいたけ(4位)
水産物 まだい(全国1位) しまあじ(1位) 真珠(1位)
工業製品 タオル(全国1位) 障子紙・書道用紙・紙製品(1位) 造船他
愛媛県出身の主な人物
- 河野通信 平安末期から鎌倉初期の武将。伊予水軍力で源氏を助け勝利に導いた。
- 一遍上人 遊行上人。鎌倉時代に時宗を拓き、他力念仏を唱え踊り念仏を勧めた。
- 河野通有 弘安の役に伊予水軍を率いて軍功をあげた。河野の後ろ築地で有名。
- 正岡子規 本名常規。俳句革新に着手し、俳誌「ホトトギス」により活動。
- 秋山好古 陸軍騎兵の父。日露戦争奉天会戦での劣勢を騎兵の力で跳ね返し勝利。
- 秋山真之 日露戦争で東郷連合艦隊指令長官の参謀。伊予水軍のT字戦法で勝利。
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安倍能成 漱石門下。一高校長・文部大臣・学習院院長を歴任。学習院中興の祖
from Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C
歴史
由来
先史
県内では2万2000年以上も前から人々が生活していた。それは、1995年(平成7年)伊予市の旧双海町の東峰遺跡・高見Ⅰ遺跡[1]でAT火山灰(姶良・胆沢火山灰)の下から石器が出土したことで分かった。
古代
松山市の久米地域は、久米国造の支配地域であり、その中心地でもあった。久米地域の堀越川と小野川にはさまれた来住(きし)台地上とその周辺に7 – 8世紀代の諸官衙遺構が集中して分布しており、発掘調査が進められている。7世紀後半の「久米評衙」遺構が、南南東部に「回廊状遺構」、その南東外部に来住廃寺塔基壇、西には「久米郡衙正倉院」がある[2]。
中世
- 藤原純友
- 河野通有(元寇と対峙した水軍大将)
- 脇屋義助(南朝)
- 村上通康(村上水軍)
- 河野通宣(河野氏)
- 河野通直
- 金子元宅
- 宇都宮豊綱(伊予宇都宮氏)
- 西園寺公広(伊予西園寺氏)
- 戸田勝隆(織豊大名)
- 加藤嘉明(織豊大名)
- 藤堂高虎(織豊大名)
江戸時代
伊予八藩
ごく短期間、川之江藩が存在した。
近代
- 1871年
- 7月 – 廃藩置県により8藩がそのまま県となる。旧幕府領は倉敷県に分属。
- 9月 – 旧幕府領が丸亀県に移管。
- 11月 – 丸亀県の一部と西条・小松・今治・松山の各県が合併して松山県に、大洲・新谷・吉田・宇和島の各県が合併して宇和島県となる。
- 1872年 – 松山県は石鉄県(せきてつけん)、宇和島県は神山県(じんざんけん)となる。
- 1873年 – 石鉄県、神山県が合併し、愛媛県となる(太政官布告第60号)。
- 1876年 – 香川県と合併、「愛媛県」となる。
- 1886年 – 松山歩兵第22連隊が創設される。
- 1888年 – 香川県が分離、今日の愛媛県となる。伊予鉄道の松山(現在の松山市) – 三津間路線開通(四国初の鉄道路線)。
- 1895年 – 村松忠雄ほか一名の出した、不穏の手紙(大院君殺害を企図した内容)が問題になる。
- 1943年 – 大日本帝国海軍吉田浜飛行場(現:松山空港)完成。
- 1945年 – 松山歩兵第22連隊、沖縄戦にて奮戦し、アメリカ軍に大損害を与えるも、補給途絶のため玉砕する。