
会長 飯塚春雄(昭52法)
日本で8つある内陸県の一つであり貿易港や臨海工業地帯を有さないものの、日本の都道府県中、人口は720万人弱(2009年)、県内総生産は20兆円強(2006年)で共に第5位、人口密度は1,890人/km²で第4位である(内陸県中ではいずれも第1位)。また農業産出額は第6位であり、ねぎやほうれんそう、ブロッコリーなど産出額が全国5位以内に入る農作物も多い。農業産出額が第2位の千葉県、第3位の茨城県と共に、首都圏における近郊農業の盛んな地域といえる。
県の西側(秩父地域)には山が多い一方、それ以外の地域は関東平野の一部をなしており平地が多い。平地部においては、東京に隣接する南側ほど人口が密集し、逆に北側ほど農地が多くなるという傾向がある。県庁所在地であるさいたま市は、内陸県にある最大規模の都市であり、内陸県唯一の政令指定都市でもある。
旧埼玉県(現在の埼玉県の東側3分の1)の設置当初、県庁が埼玉郡岩槻町(現:さいたま市岩槻区)に置かれる予定であったため、その郡名から埼玉県と名付けられた。但し、当時の岩槻には県庁として使用するのに適した建物がなかったため、県庁業務は北足立郡浦和宿(現:さいたま市浦和区)にある旧浦和県庁舎で行われた。一方、現在の埼玉県の西側3分の2に当たる地域は入間県となり、その後、群馬県と合併して熊谷県となるも僅か3年で熊谷県は解消され、旧入間県地域は旧埼玉県と合併した。その際に、埼玉県の名称のまま県庁所在地も浦和宿となったため、岩槻町が実質的な県庁として機能することはなかった。1890年(明治23年)9月25日には、勅令により正式に浦和町が県庁所在地となった。
「埼玉」の地名の発祥地は「北埼玉郡埼玉(さきたま)村」(現:行田市大字埼玉)である。その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられる。当時、既に「さいたま」と呼ばれている事が分かる。
参考文献:wikipedia