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概要

令制国では土佐国にあたり、県庁所在地高知市は土佐国の土佐郡に属していた。日本最後の清流といわれる四万十川(しまんとがわ)のほか、水辺利用率全国一の仁淀川物部川安田川など四国山地に源を発する清流が多く流れる。室戸岬足摺岬龍河洞四国カルストなど多くの天然の観光資源を有する。

近年は輸入野菜や徳島県宮崎県などに押されがちであるが、ピーマンなすトマト高知市南部の「徳谷トマト」が有名で、東京など大都市の高級レストランに出荷している)をはじめとする野菜類の促成栽培でも有名で、県中央部の沿岸部(土佐市芸西村付近)は、ビニールハウスが多く並んでいる。

古代

  • 『古事記』の国産み神話に「土佐国は、健依別(たけよりわけ)と謂う」とあって、雄々しい国とされてきた。
  • 天武天皇13年(684年)10月14日の条に「亥の刻(午前9時~11時頃)になって、大地震があった。このとき伊予温泉(道後温泉)は埋没してでなくなり、土佐国の田畠120ヘクタールが沈下して海になった。」と『日本書紀』の最古の地震記録である。白鳳南海大地震である。
  • 平安時代には、土佐は日本国の辺境とされてきた。934年 紀貫之解任され帰京(土佐日記成る) 紀貫之の名著『土佐日記』は、女性に仮託された主人公の家族が国司としての勤めを終えに帰る旅立ちの場面から始まる。
  • 土佐に土着した人は、中央から追われてきた人、逃れてきた人が住み着いた場合が多いと言われている。例えば戦国時代に四国に覇を唱えた長宗我部は、飛鳥時代蘇我氏の支流が長岡郡に定着したもの。長宗我部氏に滅ぼされた香宗我部氏は、同族(秦氏との説もある)で香美郡に住み着いた人。同じく京都の公家である一条氏応仁の乱を逃れて自分の荘園のあった中村に移り住んだ(土佐一条氏)。
  • 「陸の孤島」「遠流の国」と呼ばれ隠岐佐渡などと並んで流刑地とされてきた地域である。これは同時に中央の政争の影響が少ない地域でもあるため、中央の戦乱を避け逃れてきた人も移り住んだ。

中世

  • 戦国時代末期、土佐中央の長宗我部氏は、農民を戦力にするため一領具足の制度を作り、戦力を充実させて強大になった。一度は滅ぼされたが復活し、安芸氏・本山氏・一条氏を討ち土佐を統一、さらに四国制覇を達成した。しかし4ヶ月で豊臣秀吉に敗れ、土佐一国に戻された。
  • 関ヶ原の戦いで西側についた長宗我部氏は領地を召し上げられ、代わりに掛川から移った山内一豊が土佐一国を支配した。その際に『一領具足』は全て武士以下の『郷士』となった。

近世

近・現代

  • 1871年 廃藩置県により、土佐藩を廃止して高知県が設置される。林有造が初代大参事(知事)に就任する。
  • 1876年8月21日 名東県が分割されると、阿波国部分が高知県に編入される。
  • 1880年3月2日 阿波国部分が徳島県として分離され、現在の高知県となる。
  • 1946年 吉田茂が総理大臣となる。戦後の政治家吉田茂は高知県出身であったが、地元の鉄道敷設の陳情に対し、『私は日本の総理大臣であり、高知県の利益代表ではない』趣旨の返事をしたと言われている。