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長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県県庁所在地である。国から中核市に指定されている。中国風に崎陽(きよう)と呼ばれることもある。

古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパから多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。また、長崎県下最大の人口を持つ長崎の中心都市である。

市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は、7900人/km²と過密である。

 

年表

1801年出版の古地図

大正の市役所本館、手彩色絵葉書

戦国時代から天正期まで
江戸時代
明治期から第二次大戦まで
第二次大戦後

※行政区域の変遷は別記。

事始め

天領 長崎

  • イエズス会領から天領へ
大村純忠の領地であった長崎村は、1580年にはイエズス会領となり、1588年には豊臣秀吉の九州征伐により、秀吉の直轄領となった。その時、代官に任命されたのは、佐賀の鍋島直茂であり、4年後の1592年には後任として肥前国唐津(佐賀県唐津市)の寺沢広高長崎奉行となった。寺沢は関ヶ原の戦いにおいて東軍についたため、江戸時代に入ってからも引き続き長崎奉行を務めた。
  • 市中と郷
長崎奉行の管理下にあった天領としての長崎は、「市中」という内町・外町と、「郷」という農村部から成っていた。内町は、大村純忠が1571年に 造った6町(島原町、大村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町、文知町)をはじめとして、1593年までに本博多町、本興善町など23町が成立していた。外町 は、材木町、本紺屋町、袋町、酒屋町などで、1597年に内町との町域を定めた。
ポルトガル等との貿易によって栄えた長崎は、町の区域が徐々に拡大していったが、その領地は幕府領と大村領に混在していたため、1605年に幕府領の一部と大村領の一部を交換し、円滑な支配が行えるようにした。
これにより「市中」と「郷」からなる天領長崎が確立したが、外町の町域はその後も拡大を続け、1672年には内町26町、外町51町とされ、両町合計77町になった。さらに、外町の出島町と遊郭のあった丸山町、寄合町の3町を加え、80町となった。1676年には外町の検地が行われ、これによって長崎の町域が決定した。1699年には、内町と外町の区分が解消されている。

長崎海防掛として大村藩九州長崎氏血族の中村喜八郎を組頭に近隣諸藩より長崎永代勤番耳役として長崎十人組を組織し幕末の1857年、外国人居留地を建設するために大村領戸町村が幕府に没収されたが、この時までは上記の体制が続いた。

※行政区域の変遷は別記。