茨城桜友会へようこそ

茨城桜友会会長 八文字典昭(やつもんじ・昭和53済)

茨城桜友会は、県郡の 水戸~日立地区、東京のベッドタウンの県南は取手~牛久~土浦地区、研究学園都市のつくば地区、県西の下館~結城~古河地区、工業地区の鹿行地区など、広 範な地域に在住及び在勤される全桜友会会員を対象とし、現在の会員総数は1,670名で、全国6番目の会員数を数えています。
本会は桜友会本部の助言のもとに、徳川圀斉氏(大13初)を中心に前々会長の多賀野利弘氏(昭30経)、前会長の萩原亢雄氏(昭33政)等の幹事諸兄姉の 努力で設立され、昭和58年12月に常陽芸文センター(水戸市)で第1回総会が開催され、それ以降毎年秋に、水戸と土浦で交互に総会を開催。年々発展して 参りました。その際に、学習院・桜友会本部・会員の近況報告の他に、会員有志による記念講演会が行われています。
2002年には、8月1日に皇太子殿下・妃殿下をお迎えして、水戸プラザホテルで、愛子様の微笑ましいお話や殿下の御好物にまつわるお話などに花が咲き、予定 時間を超えて非常に和やかな懇親会を催すことができました。さらに11月23日にホテルロイヤルレイク土浦で総会を開催。能楽師の山中一馬氏(昭57法) による記念講演「能楽と世阿弥」が行われ、能の奥深さと世阿弥の偉大さが認識され、その後の懇親会では世代を超え、様々な話題で盛り上がり、楽しいひとと きを過ごしました。
2003年は9月27日、ホテルレイクビュー水戸での「学習院公開講演」にあわせて総会開催致しました。
茨城桜友会では、若い会員の積極的な参加のもとに、本会の行事を各地区の分科会や近隣桜友会との合同総会などに拡大して、会員間の新しい交流の輪を 作り、また、転勤や停年により本県に新たに在住される会員をより楽しくお迎えするよう対策を考えたい・・・と、積極的に考えております。
なお、茨城桜友会では年々会員数の増加にともない、毎回の行事等のご案内を全会員にご連絡しておりますので、諸経費の関係上、年3,000円の会費を納入して頂き、本会の運営にあたらせて頂いております。是非、今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。

<<茨城県について>>

県名は廃藩置県後、間もなくに行われた県の統合の際に、茨城郡(1878年から東茨城郡)の水戸に県庁が置かれたためその郡名が採用された。

茨城という名は、一説に、賊を討つために茨の城(柵)を築いたことに由来し、『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。

かつて常陸国の国府があった石岡市が県名の発祥地という説もある。律令時 代の茨城郡は近世・近代の茨城郡(東茨城郡・西茨城郡)よりも南まで広がっており、常陸国府は茨城郡に所属していた。「茨城」(むばらき、うばらき)とい う郡名自体が国府周辺の地名だったとされる。それを示唆するものとして、石岡市に「茨城」(ばらき)という地名がある。逆に水戸の周辺は律令時代には那賀 郡(那珂郡)に属していた。水戸が茨城郡に属するようになるのは16世紀末以降である。

茨城県は、関東地方の北東部に位置する県で、もとの常陸国全域と下総国北部にあたる。 県の人口は2,964,288人(2010年6月1日)で、総人口の約2.3%を占め、面積は6,094km²(霞ヶ浦・北浦・牛久沼・涸沼などを含めない場合は5,874.20 km²)で、国土の約1.6%を占める。県内の市町村数は44で、うち市は32、郡は7で、その下に10の町と2の村がある。

県北部は日立市で工業化が進むほか、太平洋や八溝山地のある緑豊かな地域を形成する。県中央部は水戸市に茨城県の県庁が置かれ、県東部の鹿嶋市周辺では鹿島臨海工業地帯を形成し、工業化が進んでいる。県西部は関東平野の中央部にあたり、農業を中心とした内陸の地域となっており、県南部は筑波研究学園都市やつくばエクスプレスの整備で特別区のベッドタウンとしての開発が進められた地域となっている。